自分と他人との解離
自己満足と他人との尊重の比率の配分は難しい話だ。絶妙なバランスを保つことは前述のとおり難しいが、コミュニケーションの中で必ず求められることではある。四則演算もわからない小学生に複素数の話をしてもわからないだろうし、おそらく難易度としては動物に人語を完全に理解されるほど難しいとあると私は予想する。この配分に気づいた人は800字程度の小論文を書いてもらいたいくらいだ。
さて、この「バランス」は人によって異なる思想を持ち、異なる正解がある。(これに関して疑うと民主主義の存在意義と関わりの最小限化について語ることになってしまうので今回は割愛されてもらう。)これにより意見の対立が起きるわけだが、当然どちらか一方がそれっぽいことを言ったもん勝ちといった謎のゲームが始まる。こうはいったものの、私はこの行為は悪いことだとは思っていない。そもそも言葉は人間中心に作られたものであるため、ここに絶対的な正解などないからである。(悲観的に文章を構成しているようにみえるが、作者は意外にもポジティブ的な意味で書いているのでお許しを。)そもそも正解のないものを追い求めること自体は謎ではあるが、生きる以上なんらかの線引きは必要なものである。その線には自然災害のような普遍的で絶対的なものが介在しているといってもよいだろう。
話を戻そう。「郷に入れば郷に従え」といった言葉がある。これは、界隈のしきたりを遵守せよ。ということわざであるが、これは教えであると同時に良い風刺でもあると捉えることができる。深読みと言われればそこまでではあるが、私はこういった世論で片づけて本当の問題に向き合おうとしない姿勢はあまり好きではない。私はむしろ討論したい人間なのである。ご存じのとおり、私が言っていることは妄言であることが99%だが、自分が否定される立場になって初めて見えてくるものがあると私は信じているので、これをやめるつもりはない。これに関しての異論は受け付けない。私は悪、君は正義で構わない。むしろそれでいい。それがいいのだ。私のような人間はただ面倒なだけである。よく理解している。けれども、自分が無理はしたくないし、相手への思いやりはしたい。そういった矛盾を指摘してくれ。結局はなにも捨てたくないんだよ。僕にも感情はある。歪んだ感情がほとんどだが。
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